『世界見て歩き』は、1990年代後半~2000年初め頃の学生時代の旅の記録が主な内容となっています。情報は古く、内容も青臭いですが、思い出に残してあります。写真は、当時フィルムカメラで撮影していたので、少ない枚数の中から選んだものです。日付入りだったり、そうでなかったりしますが、どうぞご了承ください。

サモア島滞在記1

Traveled in: 1998年 08月
Place:

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サモアの人々は、サモアで過ごした時間は、涙ぐましいくらいに優しいものでした。「あーおい、あーおい空だよ、サモアの空だよ、サモアの島、常夏だよ」私は小学校でならったこの歌が好きで、いつかサモアへ行ってみたいとずっと思っていました。それは本当に偶然のことで、近所に住んでいたアメリカ人がサモア出身の友人を知っていると聞いた私は、夏休みも間近だったある日、そのサモア人に会いに行きました。そこで、観光旅行ではなくサモアで生活体験をしてみたいと彼に伝えました。すると彼は快く親族を紹介してくれると言うのです。

「サモア島へ行ってくる」と告げたとき、家族はさすがにびっくりしました。さらに、その在日サモア人から家族宛ての荷物を預かったと言うと「麻薬かもしれない」だの「何かの罠かもしれない」などと疑いだす始末。軽はずみに包みを受け取った私も慎重さに欠けていたけれど、サモアに行ける! とうきうきしていた私は彼を信じることにしました。

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お世話になったファミリーの一部の人たち

サモア島の首都アピアにある空港に到着したのは、現地時間の夜11時半でした。予定では、これからお世話になる家族の誰かが迎えにきてくれることになっていました。小さい小屋のような空港を出ると、私の名前を書いた大きな画用紙を頭の上に掲げている二人を見つけました。ほっとして近寄っていくと、とても大きな体つきの彼らはぎゅうっと私を抱きしめて迎えてくれました。これだけで私はものすごく安心して、これからの滞在のことを思うと疲れもふっとんでわくわくしてきました。ラルとその旦那さんのケディックが運転する車に乗り込み、お互いになまりのある英語で自己紹介をしました。途中、まったく明かりがなくて、怖いくらいの暗闇がずっと続きます。「ついに、サモアにきた」と感じた瞬間でした。ステイ先に着くと、お母さんがわざわざ起きて待っていてくれて、そこでまた抱擁の挨拶をかわしました。ラルやケディックより、もっと大きくてぶんよりしていました。

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おみやげや預かってきた包み紙を手渡した後(日本のお菓子や置物など、思ったとおり? 純粋な贈り物でした)、夜も遅いということで私の部屋に案内してくれました。南国風の布使いがとてもかわいらしい部屋で、一目で気に入りました。

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さっそくリタとリュックレンが眠たい目をこすりながら遊びにやってきました。いとこ同士の二人はいつも一緒で、私になついて離れようとしません。

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Fuiava一族のファレの中の様子

サモアは西洋からのキリスト教文化を受け入れつつも、ポリネシアの伝統文化を基盤としてきた国です。マタイ制度(家長である父親を中心とした大家族制度)が残っていて、私がお世話になったFuiava一族は、お父さん、お母さん、息子や娘が12人とその子供たちが「ファレ」と呼ばれる大きな家で一緒に暮らしていました。

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壁のないファレ

壁のない、吹き抜けのファレも多く見られましたが、Fuiava一族の家には壁がありました。「ヨーロピアンファレ」だと言っていました。壁なしファレには、泥棒さんも入りたい放題なのでは? と思ったけれど、彼らと生活を共にしていくうちに、そんな心配はいらないことがわかってきました。小さな集落にいくつかのファレがあって、どうやらみんな親族らしいのです。そして、お互いがとても仲良しで、どこかでココナツがいっぱいとれたら、他のファレにもおすそわけすします。私がマンゴー好きだと言ったら、毎日、だれかが両腕に抱えきれないくらいのマンゴーを持ってきてくれます。そんな具合だから、人のものをわざわざ盗もうだなんて誰も思わないのです。