『世界見て歩き』は、1990年代後半~2000年初め頃の学生時代の旅の記録が主な内容となっています。情報は古く、内容も青臭いですが、思い出に残してあります。写真は、当時フィルムカメラで撮影していたので、少ない枚数の中から選んだものです。日付入りだったり、そうでなかったりしますが、どうぞご了承ください。

サモア島滞在記4

Traveled in: 1998年 08月
Place:

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バヌアツとの文化交流イベントを見学したときの写真です。

ラルとケディック夫婦、バレ、そしてお父さん、お母さん、近所の人たちを含めて、彼らのあまりの親切とおもいやりに、心から感謝しています。高熱が続いた時、ラルがベッドにその大きなお尻で腰掛けて、お肉のたっぷりついた暖かい手で「サモアの伝統的な方法よ」と頭をマッサージしてくれました。そして、ずっとそばにいてくれました。お母さんは果物を何度も持ってきてくれるし、バレは何度も「大丈夫?」と部屋をのぞきにきます。ケディックは仕事先から何度も電話をくれます。みんなの気持ちが痛いほど伝わってきて、それが薬となり元気に回復しました。

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サバイイの海です。私が一人でサバイイ島へ一泊旅行に出かけたときも、フロントに3回も電話がありました。ラルは、毎晩散歩に連れて行ってくれたり、サモア文化について教えてくれたり、どんなときも私を気にかけてくれました。ケディックはお料理好きで、何か作っては「おいしい?」「もっと食べる?」とすすめてくれます。そして私のどんなお願いにも笑顔で「No problem!」の一言。お母さんは小さな孫たちの面倒をみながら、私のラバラバ(トロピカルな模様の布で巻きスカートにするもの)をいくつも縫ってくれました。寡黙なお父さんとは、大きな笑顔とすれ違いざまに肩をポンポンッとたたいてくれる仕草、それが二人の間のコミュニケーションでした。

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家族一番の働き者バレにはいつも私の英語の発音をからかわれましたが、将来のこと、彼のこと、学校のことなどいろいろ話しをしました。そして一緒にお店番をしながら、商品のアイスクリームを食べ、二人で笑い転げて時間を共にしました。

彼女は末娘なので、本当によく働きます。誰かが用事を言いつけると「イヤー」とか「ヒュー」とか口笛を鳴らして飛んでかけつけます。言われたことはすべてやり、文句も言わず、後まわしにしたところも見たことがありません。何か言い訳をすることもありません。小さい子達の面倒から私の面倒、すべての食事の後かたずけ、店番、洗濯と何でもします。そして、すべてを終えた夜の11時頃から自分の勉強をするのです。家のことにはすべて母親任せの自分を、これほど恥ずかしいと思ったことはありませんでした。これがサモアです。お父さんはとても威厳があって、一家を力強く見守っています。そのお父さんを中心に、家族みんながお互いをおもいやりあっての生活でした。

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お父さんのドーナツ作り

ちなみに一番のんびりしているのはお母さんです。食事の用意は男性陣が、ほとんどやっていたし、だからなのか、ほんとうにサモアの女性は立派な体格の人が多かったです。そのお母さんが言うには「ファアモレモレ」でサモア人はすべて助けてくれるそうです。印象的だったのは、みんな「サモアに生まれて幸せ」と誇らしげに語ることです。私は、自分の国のことを彼らのようには誇れません。悲しいことだけれど。好きなところもいっぱいあるし、京都が私の帰るところに違いはないけれど、その時はどうしても胸を張って言えませんでした。

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はちきれそうに元気な子供たち

サモアに滞在していて、不便に思うことや清潔が恋しくなることはしょっちゅうありました。ここに永住しろと言われたら無理です。ただ、このサモアでの経験を経て、何が自分にとって必要で、必要でないか考え、それらがはっきりしてきました。それまで大量の不必要なものや情報にふりまわされて生活していたようです。私は自分が心地よく、快適に生きていくために、そんなに多くはいらないのだとわかりました。ただ私は自分の心や体が要求することに素直に従いだけなんだと。これまで、他人に、しかも見ず知らずの異国の人にここまで大切にされたことはありませんでした。いつも心を配ってくれて、もう言い尽くせないほど嬉れしかったです。人を気づかい、おもいやる彼らの心の大きさを、心底、尊敬します。素晴らしい人たちに出会えて、なんて幸せなんだろう! サモア島のFuiava一家をもう一度訪れてみたいな。